地震災害
7.阪神・淡路大震災の体験談

大地震が発生すると、何が起こるのでしょうか。「阪神・淡路大震災」を体験された方に聞いてみましょう。

兵庫県人と防災未来センター
語り部ボランティア
水口福弘(みずぐちふくひろ)さん

私はあの阪神・淡路大震災を体験しまして、地震の怖さというのを、身をもって知ったわけですね。というのは地震が発生した時に、私は神戸市東灘区住吉という所ですね、JR神戸線の住吉駅から、南の方、つまり海岸へ向かって歩いて10分ほどの住宅街にある自宅の1階の6畳の部屋で1人で寝ていたのです。ガタガタと揺れを感じて地震だと直感、とっさに布団の中に潜り込んだのです。布団から逃げ出す気は全くなかったのです。というのは、神戸には大きな地震は来ないという日頃からの先入観がありましたので、しばらくすれば治まるだろうとこう思ったんですね。


ところが治まるどころか大きな縦揺れが続いて私の体が、跳ね上がるようになったんですね。例えて言えば、車がデコボコ道を、走っている時にガタガタとしますね。ああいう様に感じたんですね。それでこれはただの地震ではないなと、こう思った途端ですね、大きな物体が、それは天井か箪笥かわからないんですけれども、たぶん、今から思えば、箪笥であったろうと思うんですけれども、とにかく大きな物体が私の下半身に落下して、全く動けなくなったのです。

それでこれは大変なことになったと思いましてね、隣の部屋に寝ているはずの家内を大きな声で呼んだんですね。お母さん、お母さんと言って大きな声で呼んだんですけれども全く返事がないんですね。それで家内も下敷きになってだめなのかなと、一瞬不吉な思いがよぎったのですけども、生きておれば、返事ぐらいはあるだろうと思って呼び続けたんですね。

そうすると暫くして、私の頭上あたりで、お父さんというのです、家内の声がかすかに聞こえたんですね。その時は嬉しかったですね。家内が生きているということがわかってホッとしましたね。そして暫く、頭上あたりで人声がしていたように思うんですけれども、やがて静かになってね、また暫くして、消防署に行ってきたから大丈夫よという、家内の声が聞こえたんですね。続いて、嬉しいことにお父さん頑張ってという、娘の声が聞こえたんですね。

私自身、必死になって、抜け出そうとしたんですけれども下半身が圧迫されて、びくともしないんですね。そしてだんだんと痺れて、感覚がなくなったんです。自分の足であって自分の足でないと。体は熱くなってくるしね。頭はボーッとして、意識朦朧というこういう状態になったんですね。それでもうこれはだめだと、覚悟を決めたんですね。

そうしますといろんなことが気がかりになったんですけれども、家族のこととか、それから年老いた両親が隣の灘区に別居しておったんですけれども、高齢ですので日頃から気になっておりましたので、そういったことも気になりましたね。そして職場のことももちろん気になりましたね。それでまあこのままでは死ねないと思いましてね、最後の挑戦のつもりで片手を、上に突き出してね、隙間がありましたので隙間から手を伸ばして、引っ張ってくださいと言って大きな声で叫んだんですね。

するとまあ偶然といいますか、たまたま誰かの指先と私の指先がほんのわずかにですね、こういう具合に、こう伸ばしておりましたらこういう具合にね、わずかに引っかかってね、引っ張ってくれたんですね。すると私の体がスルスルッと上に上がりまして、外に出ることができたんですね。つまり、布団がクッション代わりになっておったんですね。周囲から拍手がおきましてね、私は男性に背負われて斜め向かいのお家に運ばれて、そして長椅子に寝かせてもらったんですね。とにかく、ショックとそれから全身打撲という状態でしたから、その日とその夜は、そのお家に泊めてもらったんです。そういう地震が発生してから私が救出されるまでの状況はそういうことだったんですね。

4人家族だったんですけれども、私1人だけが下敷きになって後3人は家にいなかったということなんですけれども、それはいろいろ理由がありましてね。息子の方は大阪の中小メーカーに勤めておりましてね、その日は夜勤だったんです。そして娘の方もね、滋賀県の製薬工場に勤めておりまして、普段は家にいないんですね。ところが週末の土曜日に帰ってきて、連休明けの17日ですね、工場へ戻らないといけませんから、朝早く家を出たんですね。その家を出たというのが、5時半頃だったんです。そして、冬ですからまだ外は暗いですね。それで女の一人歩きは危ないというのでね、家内が見送って一緒に家を出たんですね。そしてJR住吉駅の少し手前辺りでここまで来たら大丈夫というのでね、家内が引き返して来て、そしてゴミの日でしたからゴミをゴミステーションへ運んで、そして戻ってきて台所のドアのノブに手をかけた途端地震が起きたんですね。

家内は驚いて、外へ飛び出してへたりこんでおったんですね。そしてその間いろいろありましたけれども、地震が治まったので見上げると私の家がもう2階が崩れて、そういう2階のシルエットがなくて1階だけがボーッと見えると、そしてこの中に私が下敷きになっておるということなんですけれども、1人じゃどうにもできませんからね。消防署へ走って行ったり近所の人に助けを求めたりして、私は、奇跡的に助けてもらったということなんですね。火災が発生しておれば、もうおそらく私は全然だめでしたからね。

その間1時間半ぐらいだったでしょうか。とにかくもう意識を失う寸前でしたからね。その直後に助けていただきましたからね。救出が後数分遅れていたらもうだめだったんではなかろうかなと思っている次第なんです。ですからあの時のですね、ショックといいますか、それとどう言いますか、助かったという、気持ちですね、それが今もってずっとありましてね、よくまあここまで生きておるなという感じです。

そういうことで当時の状況はそういう状況だったんですけれども。そして、私はその家に一昼夜泊めてもらってあくる日、家族が一足先に避難しておりました住吉小学校の、体育館に移ることになって、その家を朝早く出たんですね。そして初めて外に出て、町並みが一変しているのに、ビックリしたんですね。というのは、私の家はもう文字通りペシャンコでね、隣は家が傾いており、向かいの家が全滅しておりまして、そして私の家の前は狭い道路だったんですけれども、塀が倒れこんでおりましてね、あるいは住宅の屋根のひさしが、ちょっとこう倒れこんでおりまして、道路がふさがっているんですよね。そしてあの辺りはもう古い木造住宅というのが、全滅状況だったんですね。ですから普段は遠くが見えないんですよ。ところがその時はもう古い木造住宅の2階というのはもうありませんからね。遠くが見渡せるんですね。そういうような、町並みに一変しておりましてね、そしてそういう中で私は最初にしたことというのは、職場に連絡したんですけども、もちろん電話はしましたけれども、通じないんですけれども、歩いて普段は30分ほどで行ける職場に行きまして、その時は1時間ほどかかったんですけれども行って、職場も壊滅状況でしたね。そしてたまたま居た仲間に、事情を説明してね、そして避難所に戻って来まして、その日から避難所生活が始まったとこういうことでね、その間本当に今思えば夢のようです。

震災から学んだことといいますのは色々ありますけれどもひとつは、常に備えよということだと思うんです。それで地震はいつどこで起きるかわかりませんけれども、必ず起きるということですね。現に神戸がそうでしたね。私は阪神・淡路大震災の前にね、九州の雲仙普賢岳の火砕流災害、それから北海道の奥尻島の津波災害ですね、あれをテレビとかそういったもので、状況を見ていまして、あれは神戸ではありえない、自分があんな体験をすることはありえないと、まるでよそ事のように思っておりましたけれども、明日は我が身になってしまったんですね。

ですから、地震というのはいつどこで起きるかわからないからそのために常に備えるということが必要で、そのための備え方というのは、国とか地方行政とか地域とか国がやることはいろいろあると思いますけども、私の例から言いまして、個人的な経験から言いまして、まずひとつは、簡単なことですけれども、箪笥とか、家具の傍では寝ない。現に私は、箪笥の傍で寝ていまして箪笥の下敷きになったのではなかろうかと思うんですよね。

それと私の家内は枕元に、ヘルメットと懐中電灯を置いて、寝ておりますね。そしてやはり地震が発生しました後ですね、瓦礫の上を歩くということも考えられますので、底の厚い頑丈な靴も用意しておりますね。それから人によりましたら笛を、身に付けていたらいいと言う人もおります。その上2、3日分の必要なものをリュックサックに詰めて、身近なところにおいて置くとかその他いろいろありますけれども、私は、そういう物理的に備えるということの他にやはり、地震が起きてしまったらもうこれは仕方ないんで、後ですね、やはり今までの平和な暮らしから一変して、劣悪な環境の中で、暮らすことになりますから、やはり体力と気力は必要ですね。ですから普段からそういう気力体力を維持して、そういうような避難所生活にも耐えられる、そして財産を失ってもめげない。そういったものを乗り越えていけるだけの、やはり気力とか体力というものが、その後阪神大震災以後の現状を見ていて、せっかく助かっても、孤独死をしたり、自ら命を断つ人もいると聞いておりますので、やはり助かった後ですね、そういう苦しい生活に耐えられる、乗り越えていけるだけの気力、体力をやはり普段から養っておくということが大事ではなかろうかなと思うんです。

それからもうひとつは、私は、近隣の人に助けてもらいましたね。家内は消防署へ走って行きましたけれども、消防署には沢山の人が助けてーと言って、やって来ていましたね。そしてそこには家内から言わせると職員が1人だけおりまして、もうパニック状態でして、紙に住所と名前を書いておいてくださいと言うだけで、帰ってきましたと。ですから私は消防署の人が来るのを待っていたら今ここにはおりませんね。結局近隣の人に助けてもらったわけですね。ですからやはり、いざという時に頼りになるのは近隣関係ですね。普段から、近隣の人たちと良好な関係をもって、誰がどこにいるということをある程度把握しておくと。そして助け合うということが私は必要ではないかなと、こういうことを実感したわけなんです。

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