寺田 寅彦
『事変の記憶』 Zihen no Kioku (抜粋)

(大正12年10月『ローマ字世界』)

 今度の地震と、そのために起こった大火事とによって、我々は滅多に得られない苦い経験を嘗めさせられた。この経験をよく噛みしめて味わってそうしていつかはまた起こるべき同じような災いをできるだけ軽くするように心掛けたいものである。これは今誰でもそう思い、また言っていることであるが、この苦い経験の記憶がいつまでつづき、この心掛けがいつまで忘れ〔られ〕ないでいるかということが問題である。咽喉もと過ぎれば熱さを忘れ、よい気持ちになって太平楽の夢を見る時分になって、再び襲って来る災いのために、我々の子孫がまた今度と同じ、あるいはもっと、もっと苦い経験を嘗めなければならないような日が来るのではあるまいか。

 私は今度の地震や火事についていろいろの調べをするについて、何かそのために参考になることもあろうかと思って、昔から今までに、この東京の土地で起こった大地震や大火事に関するいろいろの古い記録を調べて読んでみた。それを読んでいるうちに、深く心を動かされたことは、今度我々が嘗めたと全く同じ経験を昔の人がさんざんに嘗め尽くしてきているということである-しかも、そういう経験がいつの間にか全く世の中からは忘れられてしまって、今文明開化を誇っている我々がまた昔の人の愚かさをそのままに繰り返しているという不思議な、笑止な情けない事実である。
(中略)
 著しい事変のある度に、それが、人間の風儀の悪くなったための天罰だと言って、自分ひとりが道徳家ででもあるような顔をしたがる人がある。これも昔から今まで変わりはない。昔のそういう人の書いたものをよく見ると、人間というものは昔から全く同じことばかり繰り返しているものだという気がする。どうしてこういつまでも進歩しないものであろう。つまりは、"経験の記憶"というものが弱いためではあるまいか。言いかえれば広い意味での"学問"が足りないためではあるまいか。あるいは、それを知っていても、その日暮らしの料簡で、それを気に掛けないためだろうか。
 いくら跳ね飛ばしても弾き飛ばしてもランプの灯に寄って来るカナブンブンと我々人間との違いは、ただ"記憶の時間の長さ"の違いに過ぎないのではないかという気もする。


『寺田寅彦全集』第九巻 1997年8月 岩波書店

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