災害の基礎知識を学ぶ
2.インタビュー

災害の基礎知識を学ぶ必要性

日本列島というのは自然が美しい国ですけれども、災害も多い国ですね。今年になってからも宮城県北部とかそれから北海道十勝沖とか、それから水俣の土石流とか、今でもまだ三宅島続いているとか、そういう災害が続いておりますね。次の日から復旧に入れる災害も、長く、長く続く災害といろいろありますね。だから何処でいつ災害があってもおかしくないというそういう認識だけはしっかり持ってなきゃいかんと思いますね。それでしかも災害というのはですね、最近の災害は地震災害なんか特にそう、噴火災害もそうですけど、広域的にわたりますね。そうするとかなり広い範囲になると各関係の市町村の方はですね、防災の担当の職員の方だけではとても僕は対応できないと思うのです。

その市町村なら市町村の職員全員が何らかの形で防災対策にやっぱり担当しておかないといけない、あたらなきゃいけないと思うのです。そのぐらいの災害の今の発生の状況だと思うんです。ですから、そういう意味では防災が自分は担当ではないよと言わずに、いつかなんらかの担当をするのですから、いつもそういう災害に対する基礎知識というものを持っていて、そして、自分が地方公共団体の職員として住民の生命の安全を、財産を守る。そういう立場のことを考え、住民の身になって考えながら、自分がいつも何をすべきかということは学習しておくという必要がこれ非常にあると思いますね。最近の災害は特にその広域的な災害が多いだけに、そういうことを非常に強く感じますね。


長崎大水害回顧

昭和57年、私が知事になったすぐ直後ですけどね、長崎の大水害があったのでございます。それは7月の22日の夜半から23日の明け方にかけて、ど、どーと降りましてね。1時間あたりの降水量が187ミリ、これは今日本新記録、まだ破られておりませんけどもね。それで299人の方が亡くなったんですよ。それでこれは長崎大水害と雲仙の噴火災害の大違いはですね、長崎大水害という水害は1日でどーときて、その次の日からもう復旧に入るという。ところが雲仙の場合は長期にわたって災害があって、そこの辺が基本的に違うんですね。だから長崎の大水害の場合はもう翌日からすぐに復旧に入ろうと、どこから復旧に入ろうかというのがありましてね。まずひとつはですね、全部道路が切れちゃったんです。だからその道路の復旧。言うなればですね、長崎市民があの時は45万人いたんです。45万人が、長崎市内が陸の孤島になっちゃったんです。その長崎市内の道路の復旧というのが最大の早期にやらなきゃならない使命でありましたね。それとそれからインフラの整備。インフラとは何かと言うと、ガス、水道ですね。伝染病の発生というものが非常に怖かったんです。ですから消毒の万全を期すのと、それからガス、水道を1日も早く供給をすると。これにもう全力を尽くしましたね。この陸の孤島を解除するためにはゴミの排除というのが、これ1年間でですね、出るゴミが1日で出ちゃったのですよ。そのくらいのすごいゴミが出たのと土砂が出たの。それから土砂が土石流で亡くなった方の所、大きいところで5箇所ありましたからね。それが原因になって道路がとれちゃった、切れちゃった。だからそういうものを早く復旧するということが大きな使命でしたね。それで復旧するのにですね、災害復旧はご案内のとおり3ヵ年でこうやると。それで3、5、2という方式で全部10割やるわけですね。それをね、それじゃあとてもかなわないというんで、もうだいぶ政府のほうにお願いしまして、長崎方式と言って、7、1.5、1.5という3ヵ年方式。これを採用して頂いたんですよ。これはとても嬉しかったですね。初年度に7割投入すると。だから早く復旧にかかるということをやって頂いたと。これでずいぶん復旧が早くなりましたのと、それから災害での病気がでなかったということ。これはとてもありがたかったと思いますね。それともうひとつは長崎の市内というのは特徴がありましてね、ダムが市内に3つあるんですよ。これ利水のダムなんですよ、市民のための。それがものすごく怖かったです。ダムが崩壊するんじゃないかと。これが崩壊したらこれはもう何万人の人がいるか分かりませんからね。だからこれの教訓がありましたので、その利水のダムを全部、治水と利水に変えたんです。それで利水のダムは別のとこに造ったんです。これもひとつ大きなもので至急にやらなきゃいかんことだったですね。まあ長崎大水害の場合はそういうことで、あとの復旧というのは相当早く出来上がったというのがとても嬉しかったと思いますね。


雲仙普賢岳噴火災害回顧

普賢岳はね、今申し上げましたようにね、長崎大水害と基本的に違うことはですね、ある日、どーときて次の日から復旧って入れなかったことです。もうそれこそいっぺん噴き出したら、平成2年の11月の17日に山に煙が上がってから、平成、終息するまでは8年までですからね。それはもう長い長いあれがかかって、山がどう変化するかということが一番怖かったですね。その山の長期にわたるその人の、住民の安全というものを考えるということが一番の僕は課題だったですね。住民の生命を守るということ。命はですね、物は後で買えるけども命は買えないから。物はあがなえるが命はあがなえないと。だから命を大事ということをもう第一、安全第一に考えましたね。ただその命第一だけ考えましてもね、住民の立場の人も考えなければいけないのですよ。というのはですね、住民の人は日本で初めてあの時に警戒区域を設定したんですよ。すると警戒区域を設定されると、いやおうなしに財産を全部、家、家屋、財産を放置して外へ出なきゃならない。解除されるまではそこへ入れませんからね。そうするとその住民の人のことも考えてあげなければならない。命の安全も考えると同時に、住民の人、早く帰りたいと、もしそこが、危険が解除されるなら早く帰りたいという気持ちがあるわけです。ですから常に山を見ながら、山というものの噴火の状況を見ながら、その区域というものをどういうふうに設定をしたり、それから解除を若干してやって、入れるようにできるだけ一時的にしてあげたりと、そういう変化に対応して、そして住民の人のことを考えて、住民の身になってですね、ものを考えるということが、あの時の最大の使命でしたね。住民の人は長期にわたるだけにね、もう何もないですから。財産やなんか放置したんですから。それから家屋だってすぐ目の前にあるのに入れなかったという。だからそういうことを命の安全と住民の人の立場。このことを考えるのが最大だったですね。それとまあそのためには基金も昔の自治省で創っていただいたりしてね。もう特に僕はそのへんは感謝して、基金を創って自由に使える金を創って使えたんですね。住民の人の要望に応えられるように。このことがやっぱり雲仙の場合とそれから長崎の大水害の場合は、多くの方の義援金をいただいたという点は同じ。これはとてもありがたかったですけども、その災害の違いというものがそこにありましたね。1日で次の日から復旧というのと、もう長年かかった災害というものに対応する。そのためにはですね、山をいつも見てなきゃならない。山の状況を判断するということが大事だったんです。それで法律的に言いますとね、ご案内のとおり警戒区域の設定というのは市町村長の権限なんですね。だけど山は広域にわたりますね。だから広域にわたる時には権限は市町村長でも、その判断というものは私が中心になりましてね、知事が中心になって関係の市町村長とか、それから自衛隊とか、警察とか、消防とか、それから防災機関、海上保安庁とかそういった関係者を全部集まった会議を常時開いていたのです。山の状況をいつも判断したのです。これはね、僕はとてもよかったと思うのです。これ今後の山の災害にあたってですね、防災にあたる方は、これはね、僕は非常に参考にしていただいたらいいと思いますね。市町村長の権限だからといって市町村長おまえやりなさいと言ったんじゃそれは気の毒だと思うのです。広域ですからね、法律的には市町村長でも、その対策は広域的に考えて知事が責任者になって関係者の方、集まっていただいて学者とかそういう方たちに集まっていただいて、常時やってる、もう50回ぐらいやりましたよ、その会合。そして山のここ、今は少し解除してもいいなと、ここは設定しなくちゃいけないなということを常に適宜見ながら、そして解除していいところは人を少し、住民の人の財産を取りに行かせたり、そういうようなこともやって、住民の身になって山の的確性を判断しながら、そういう判断だったというのはね、あれは僕はとても他の山の長期の災害にあたる方もご参考にしていただいたらいいことじゃないかなと今でもそう思いますね。関係者の方もみんなそう言ってくださっています。

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