師範室


日野原重明氏
いのちの大切さについて数多くのメッセージを世に送り出しておられる日野原重明氏より、e-カレッジで学ばれる皆さんにエールを送ります。

寺田寅彦氏
災害と人間の関係について洞察され、「災害は忘れた頃にやってくる」という警句を遺された寺田寅彦氏の著作をいくつか抜粋してご紹介します

今村明恒氏
関東大震災を警告し、震災後は数多くの著作や講演を通じて震災軽減を訴えた今村明恒氏の著作や講演レコードを紹介します。

濱口梧陵氏
津波防災の代表的教材である「稲むらの火」。その主人公のモデルとなった濱口梧陵先生の業績を紹介します。

日野原重明(ひのはらしげあき)

日野原重明
1911年(明治44年)-2017年(平成29年)

日野原重明 聖路加(せいるか)国際病院理事長・名誉院長は、1911年(明治44年)に山口県でお生まれになり、2017年(平成29年)7月18日に105歳で亡くなるまで生涯現役として活躍されました。
先生は、京都帝国大学医学部並びに同大学院修了後、1941年(昭和16年)、聖路加(せいるか)国際病院の内科医となられ、その後、内科医長、院長を歴任されました。
この間、予防医学や全人医療の導入など常に医療・医学・医学教育の革新に努められ、1993年(平成5年)には日本初の独立型ホスピスを設立されました。
先生は、厚生労働省医師研修審議会会長、文部科学省医学視学委員・看護視学委員、 国際内科学会会長、ライフ・プランニング・センター理事長、全日本音楽療法連盟会長、日本医学教育学会名誉会長などさまざまな公職を務められました。
また、「生きかた上手」「いのちを創る」「いのちの言葉」「命をみつめて」など「命」について深く洞察した数多くの著書があります。
1998年(平成10年)に東京都名誉都民となられ、1999年(平成11年)には文化功労者に選ばれ、2005年(平成17年)には文化勲章を受賞されました。
100歳を超えても診療の現場に立たれ、教育の現場で常々訴えられていた「命を自分以外の何かのために使う」ことを全うされた先生でした。

寺田寅彦(てらだとらひこ)

寺田寅彦
1878年(明治11年)-1935(昭和10年)

「天災は忘れられたる頃来る」誰でもが一度は聞いたことのあるこの警句。この警句を言ったとされるのが寺田寅彦先生です。寺田先生は、明治から昭和初期にかけ、東京帝国大学の物理学者として活躍される一方、今も色あせないさまざまな随筆を遺されました。
防災・危機管理の視点からも、現在に活かされるべき数多くの著作があります。たとえば、「函館の大火について」(1934年(昭和9年))の中では、関東大震災での大火災について振り返り、火災が猛威をふるった原因として、水道が止まった上に同時多発的に出火し消防機関の能力を超えてしまったことと合わせ、「東京市民が明治以来のいわゆる文明開化中毒のために徳川時代に多大な犠牲を払って修得した火事教育をきれいに忘れてしまって、消防のことは警察の手にさえ任せておけばそれで永久に安心であると思い込み、警察のほうでもまたそうとばかり信じ切っていたために市民の手からその防火能力を没収してしまった。」ことを挙げています。さらにそれに続けて、「それらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたことに帰するべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実に基づくものであろう。」とも記しています。
これ以外にも、現代に生きる私たちにとって大変示唆に富む著作があります。主なものをいくつか抜粋してご紹介しますが、e-カレッジでの学習などを通じて私たちの防災力が高まり、そして、寺田先生が警告される、自然に対して畏敬の念を持ち続けることができれば、寺田先生の時代から一歩進んだ時代がやってくるのではないでしょうか。

「竜巻の話」Tatumaki no Hanasi(抜粋)

大正5年1月『ローマ字世界』)
昔の人は自然界に起こるいろいろな現象のうちで、地震とか雷とかいうような勢いの激しい恐ろしいものに出会うたびに、ただ訳もなく恐れおののいた。その恐ろしさはただ自分の命が惜しいという利害の考えからばかりでなく、現象の起こる訳が分からないための頼りなさと心細さを一倍感じたに相違ない。それで、おのずから神とか恐ろしい動物などとか思い浮かべて、これらの現象を、そういうものの仕業と決めて、ともかくも安心のならぬ安心を求めたものと思われる。竜巻などもやはりその類いであろう。竜巻の水を巻き上げる様はまことに竜が昇天するかと思われるようである。馬琴の小説『八犬伝』の初めの巻に、里見義実が、三浦の浜辺で竜を見る条りなどを読んでみると、竜巻の有様が巧みに写されていて面白い。この現象の起こる初めに雲から垂れ下がってくる紐のようなものを、西洋人は象の鼻に譬えているが、東洋人の目から見れば竜の尾とも見られないことはなかろう。
『寺田寅彦全集』第九巻 1997年8月 岩波書店

「事変の記憶」Zihen no Kioku(抜粋)

(大正12年10月『ローマ字世界』)
 今度の地震と、そのために起こった大火事とによって、我々は滅多に得られない苦い経験を嘗めさせられた。この経験をよく噛みしめて味わってそうしていつかはまた起こるべき同じような災いをできるだけ軽くするように心掛けたいものである。これは今誰でもそう思い、また言っていることであるが、この苦い経験の記憶がいつまでつづき、この心掛けがいつまで忘れ〔られ〕ないでいるかということが問題である。咽喉もと過ぎれば熱さを忘れ、よい気持ちになって太平楽の夢を見る時分になって、再び襲って来る災いのために、我々の子孫がまた今度と同じ、あるいはもっと、もっと苦い経験を嘗めなければならないような日が来るのではあるまいか。
 私は今度の地震や火事についていろいろの調べをするについて、何かそのために参考になることもあろうかと思って、昔から今までに、この東京の土地で起こった大地震や大火事に関するいろいろの古い記録を調べて読んでみた。それを読んでいるうちに、深く心を動かされたことは、今度我々が嘗めたと全く同じ経験を昔の人がさんざんに嘗め尽くしてきているということである-しかも、そういう経験がいつの間にか全く世の中からは忘れられてしまって、今文明開化を誇っている我々がまた昔の人の愚かさをそのままに繰り返しているという不思議な、笑止な情けない事実である。
(中略)
 著しい事変のある度に、それが、人間の風儀の悪くなったための天罰だと言って、自分ひとりが道徳家ででもあるような顔をしたがる人がある。これも昔から今まで変わりはない。昔のそういう人の書いたものをよく見ると、人間というものは昔から全く同じことばかり繰り返しているものだという気がする。どうしてこういつまでも進歩しないものであろう。つまりは、"経験の記憶"というものが弱いためではあるまいか。言いかえれば広い意味での"学問"が足りないためではあるまいか。あるいは、それを知っていても、その日暮らしの料簡で、それを気に掛けないためだろうか。
 いくら跳ね飛ばしても弾き飛ばしてもランプの灯に寄って来るカナブンブンと我々人間との違いは、ただ"記憶の時間の長さ"の違いに過ぎないのではないかという気もする。
『寺田寅彦全集』第九巻 1997年8月 岩波書店

「流言蜚語」(抜粋)

(大正13年9月『東京日日新聞』)
(前略)
 「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親父株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。
(中略)
 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである。
『寺田寅彦全集』第七巻 1997年6月 岩波書店

「津浪と人間」(抜粋)

(昭和8年5月『鉄塔』)
 昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津波」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰り返されたのである。
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰り返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰り返されるであろうということである。  こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備へ、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
(中略)
(追記)三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。
(後略)
『寺田寅彦全集』第七巻 1997年6月 岩波書店

その他の主な著作(防災・危機管理関係)

  • 「地面の脈動と津波」(1921)
  • 「地震の予報はできるか」(1922)
  • 「吉岡君の思い出」(1923)
  • 「関東地方の地形と今度の地震」(1924)
  • 「地震雑感」(1924)
  • 「火山の名について」(1931)
  • 「烏瓜の花と蛾」(1932)
  • 「火事教育」(1933)
  • 「天災と国防」(1934)
  • 「災難雑考」(1935)
  • 「颱風雑俎」(1935)
  • 「静岡地震被害見学記」(1935)
  • 「震災日記より」(1935)

今村明恒(いまむらあきつね)

今村明恒
1870年(明治3年)-1948(昭和23年)

「不意の地震に不断の用意」東京有楽町駅そばの数寄屋橋公園にある関東大震災の記念塔に記されている警句です。ここで紹介する今村明恒先生らによって、全国から応募された中から選ばれました。
今村先生は、明治から昭和前期にかけ、東京帝国大学の地震学者、日本地震学会の会長などの立場から数多くの業績を遺されました。特に、地震と震災を峻別し、「元来地震は地殻の振動であって、人力を以て制御し得べからざる自然現象であるが、震災は造営物に対する地震の影響が主であって、人自ら招く災禍であり、努力の如何によりては之を防止し得べき人為的現象である。」との観点から、震災軽減のための取り組みを強く訴えました。
先生は、明治38年、雑誌太陽に「市街地における地震の損害を軽減する簡法」と題する論文を発表されました。その中では、(1)過去の大地震が平均100年に1回の割合で発生しており、直近の大地震からすでに50年を経過していることを踏まえると、今後50年間に大地震に見舞われることを覚悟しなければならないこと、(2)東京が大地震に襲われた場合は合計10万ないし20万人の死者が生じる可能性があることを示し、被害を軽減するための方法を詳しく解説されました。発表の翌年、この論文が新聞で「予言」としてセンセーショナルに取り上げられ、社会的影響を懸念した上司の教授と対立しました。その約20年後の大正12年9月1日、関東地震が発生し、関東地方は先生が恐れた大震災に見舞われることになったのです。
その後、一躍脚光を浴びた先生は、「地震博士」として執筆、講演などを通じ、震災対策の必要性を以前にも増して訴え続けました。特に、防災教育については、地震国であるにもかかわらず小学校の教科書に地震が取り上げられていないことを憂い、文部大臣をはじめとする関係者にねばり強く訴え、今日改めて注目されている「稲むらの火」などが教科書に取り入れられました。
本師範室では、先生の業績の中から、基本的な考え方を端的に記した「地震に対して武装されたる町村と武装なき町村」及び"稲むらの火"について解説した「「稲むらの火」の教方に就て」の一部を紹介します。
先生はある著作で、関東大震災を受け、「既往は追ふべからず。要は今後斯様な災禍を再び繰返さないことにある。成程関東では当分静穏な状態が続くであらう。併し永い期間の後には又々活動が繰返さるべきは疑いを容れない。況や我帝国の他の地方にはこれと想像せられる場所もある。」と記されました。関東大震災からすでに80年余が経過し、阪神・淡路大震災、鳥取県西部地震、芸予地震、十勝沖地震、新潟県中越地震など各地で大きな地震が続いています。改めて、今村先生の声に耳を傾け、「不意の地震に不断の用意」を心がけたいと思います。

(参考)
今村明恒 『鯰のざれごと』 三省堂 1941年
武者金吉 『地震なまず』 東洋図書 1957年 *1995年明石書店から再刊
山下文男 『君子未然に防ぐ-地震予知の先駆者今村明恒の生涯-』 東北大学出版会 2002年
産経新聞 2004年4月19日~4月23日 「凛として 10-14」(地震予知の先駆者今村明恒)

(注) 関東大震災の記念塔は、震災共同募金会が朝日新聞の後援を受けて昭和8年9月1日に建立したものです。関東大震災から10年を迎え、人々からその震災禍が忘れ去られようとしていたときで、改めて震災について多くの人々に認識していただくために行われた事業でした。

「地震に対して武装されたる町村と武装なき町村」(抜粋)

「地震に対して武装されたる町村と武装なき町村」(抜粋)

「「稲むらの火」の教方に就て」(抜粋)

「「稲むらの火」の教方に就て」(抜粋)

レコード講演

濱口梧陵(はまぐちごりょう)

濱口梧陵
1820年(文政3年)-1885年(明治18年)

幕末から明治初期を生きた濱口梧陵先生は、津波防災教育の教材として有名な「稲むらの火」*のモデルとなった人物です。
 1854年(安政元年)12月(旧暦では11月)、日本列島は二つの大地震に襲われました。安政東海地震と安政南海地震です。わずか32時間の間に発生した二つの大地震は、揺れや津波によって甚大な被害を広い範囲にもたらしました。
 安政南海地震では、紀伊国広村(現 和歌山県広川町)も5mほどの大津波に襲われました。この際、醤油醸造業7代目当主として当地の有力者であった濱口先生(当時35歳)は、率先して救出・救助活動に当たる中、野に積んであった稲むらと呼ばれるワラの山に火を放つことによって流され逃げ惑う人々への道しるべとしたのです。こうした機転の利いた行動は、地震の後には津波が襲ってくることを熟知していたことで導かれたものと推測されます。

やがて、この事実にヒントを得た小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が"A Living God"という小説を著しました(1896年(明治29年))。その後、1933年(昭和8年)、文部省による教科書教材の公募が行われ、濱口先生の故郷で小学校の教鞭を執っていた中井常蔵氏が"A Living God"を基に教材文を作成してこれに応募しました。1937年(昭和12年)、それが小学校5年生の国語の教科書に「稲むらの火」として採用されることとなりました。安政南海地震から83年、小泉八雲、中井常蔵氏を経て、濱口先生の行動が全国の子ども達に語り継がれることになったのでした**。

濱口先生の防災上の功績はこれだけではありません。1854年(安政元年)の震災の後、将来襲ってくる津波から子孫やふるさとが守られるよう、私財を投じて堤防の建設に取り組んだのです。堤防の建設は、短期的には災害で疲弊した村民の仕事と生活を保証するものでもありました。投じた私財は今の価値で5億円程と言われています。家業である醤油醸造業が1855年(安政2年)に起きた安政江戸地震によって大きな被害を受けるなど、資金確保には相当の苦難があったものと推察されます。こうした苦難を乗り越え、そして、地元の人々の懸命な働きもあって堤防は、1858年(安政5年)に完工しました。それは、高さ5m、幅20m、長さ670mに及ぶもので現存しています。

さて、堤防の完成から88年後の1946年(昭和21年)12月、広村を再び津波が襲いました。昭和南海地震による津波です。先生が完成させた堤防は、予期していたとおりの効果を発揮しました。集落の大部分が浸水を免れたのです。堤防は「住民百世の安堵を図る」という濱口先生の強い信念の下で建設されましたが、まさしくその信念が数世代後の人々を救ったのでした。そして、将来再び必ず襲って来る津波からも、多くの人々を守ることになるでしょう。
 先生の功績を振り返ると、災害についての正しい知識、知識を活かした適切な行動、非常時のリーダーシップ、そして長期的な視野に立った防災対策の立案・実施と、防災リーダーとしての条件を全て兼ね備えた人物だったと言えます。むろん、先生の時代からは既に1世紀以上を過ぎ、社会環境は大きく変わっています。しかし、津波の襲来という自然現象は、日本の沿岸ではどこでも起き得ます。全ての条件を備えることは難しいかもしれませんが、先生の功績を心得た防災リーダーが数多く生まれることが期待されます。

 *大地震の後津波の危険を察知したお年寄りの庄屋が、それに気づいていない村人達に津波の襲来を知らせるため、自分の貴重な財産である稲むらに火を放って多くの人々を救ったという物語。
 **その後、「稲むらの火」は一時期教科書から姿を消しました。しかし、日本海中部地震(1983年(昭和58年))やインドネシア・スマトラ島沖地震に伴うインド洋津波(2004年(平成16年))などを契機に見直され、今再び、国内的にも国際的にも注目される防災教材となっています。

(参考資料)
今村明恒,「地震漫談(其の四の一) 南紀廣村の防浪堤、漫談(其の四の二)浜田梧陵」,『地震』第1輯第5巻7号,1933年 *原典ではタイトルを「浜田」と誤記。
今村明恒,「「稲むらの火」の教方に就て」,『地震』第1輯第12巻8号,1940年
宇佐美龍夫,『資料 日本被害地震総覧』,東京大学出版会,1975年
杉村広太郎,『濱口梧陵小傳』,広川町文化財保護審議委員会・広川町教育委員会,2005年 (現代語訳版)
津村建四朗制作監修,『「稲むらの火」と史蹟広村堤防』,西太平洋地震・津波防災シンポジウム(事務局:気象庁),2003年
戸石四郎,『津波とたたかった人―浜口梧陵伝』,新日本出版社,2005年
府川源一郎,『「稲むらの火」の文化史』,久山社,1999年
防災まちづくり学習支援協議会((社)再開発コーディネーター協会・(社)日本建築家協会・NPO日本都市計画家協会),『戦前版「教育紙芝居『稲むらの火』復刻に伴う解説及び資料集」,(財)都市防災研究所・損保ジャパン・都市環境デザイン会議協力,2005年
矢守克也,『<生活防災>のすすめ 防災心理学研究ノート』,ナカニシヤ出版,2005年
「歴画浜口梧陵伝」編集委員会監修,『歴史マンガ 浜口梧陵伝 津波から人びとを救った稲むらの火』,環境防災総合政策研究機構企画・制作,文渓堂,2005年
和歌山県広川町,『稲むらに燃ゆ-海嘯と闘った男・浜口梧陵の軌跡』,1998年
渡辺偉夫,『日本被害津波総覧』,東京大学出版会,1985年

(参考ホームページ)
 「稲むらの火」ホームページ
  http://www.inamuranohi.jp/
 ヤマサ醤油株式会社ホームページ
  http://www.yamasa.com/history/sevens.html
 内閣府防災部門ホームページ(稲むらの火と津波対策)
  http://www.tokeikyou.or.jp/bousai/inamura-top.htm
 広川町ホームページ
  http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/